MESSAGE/メッセージ


ここでは、私の書いた文章、話した言葉を記していこうと思います。

私が建築設計を行う理由は、設計者としての表現欲というのもありますが、それ以前に『人間の暮らしを描きたい』というのがあります。その一つの手段が設計という行為なのです。今、微力ながら教員の仕事もしていますが、それも同じ理由からです。学生たちが、私から少しでも学びを得て社会に還元していってくれれば、そこには、自らが建築設計をしていくのと同じ喜びを感じるのです。ここで、私の言葉を記していくのもまた同じ理由からです。私の言葉から何か感じ取っていただけることがあれば幸いです。

 


 

■京都新聞:2022年4月30日 朝刊

 

『暮らしの中の風景』

 

安原一成

 

私は、建築設計事務所を自営しているが、京都市内にありながら山々に囲まれた昔ながらののどかな田園風景が残っている。北側の田畑の先に一両編成のかわいらしい電車が走っていて、その走り去る音で、ふと時間が流れていることに気付かされることがある。そんな静かで穏やかな場所だ。

小さな事務所であるため1人で机に向かっていることも多いが、聞こえてくるのは電車が走る音を除けば鳥の鳴き声くらいか。いや、目の前の田んぼは休眠期になると地域住民に開放され、ドッグランや子どもたちの遊び場と化し、夕暮れ時は少々にぎやかになる。そんな時は私も外に出て庭仕事に精を出す。

人間の暮らしのあらゆる場面を思い描きながら行う設計という仕事、特に住宅設計を行う私には本当に適した恵まれた場所だと思う。人間に限らず生きとし生けるものすべての生を感じながら暮らすことは、人生を豊かにしてくれるに違いない。

 

 

<原文>

『暮らしの中の風景』

 

安原一成

 

私は、建築設計事務所を自営しているが、京都市内に在りながら、山々に囲まれた昔ながらの長閑な田園風景が残っている。北側の田畑の先には一両編成のかわいらしい電車が走っているが、その走り去る音によってふと時間が流れていることに気付かされることがある。そんな静かで穏やかな場所だ。小さな事務所であるため一人で机に向かっていることも多いが、聞こえてくるのは電車が走る音を除けば鳥の鳴き声くらいか。いや、目の前の田んぼは、休眠期になると地域住民に開放され、ドッグランや子供たちの遊び場と化すため、夕暮れ時は少々にぎやかになる。そんな時は私も外に出て庭仕事に精を出す。人間の暮らしのあらゆる場面を思い描きながら行う設計という仕事、特に住宅設計を行う私には本当に適した、恵まれた場所だと思う。

人間に限らず、生きとし生けるものすべての生を感じながら暮らすことは、人生を豊かにしてくれるに違いない。

 


 

■朝日新聞:2022年4月18日 朝刊

 

『近所で「庭」の緑がもたらすもの』

 

安原一成

 

家には小さくても「庭」が必要だと考えている。この庭は、植物の育つ庭という意味で、マンションならばプランターでもよい。身近に緑があれば、人々の暮らしは豊かになる。

約2年前、自ら設計して家を建て、小さいながらも庭をつくった。住宅を設計する時は、まずは庭を考え、残ったスペースに家を建てる。自然を前に、建築が優先してはいけないからだ。そうした庭への思いが近所の人たちに伝わっているのだろうか。近所の方が株分けした草花や球根、こぼれ種で育った樹木と、色々な植物を持ってきてくれる。本当にありがたい。

道路沿いは生垣とし、いただいたホトトギスやスイセン、クリスマスローズなどを植えた。道行く人にも好評のようだ。植物を通して近所のコミュニケーションが図れ、地域で調和のとれた植物環境も形成される。まさに一挙両得だ。

 

 

<原文>

『地域と庭と』

 安原一成

 

『家庭』という言葉があるが、家には小さくても良いので庭が必要だと私は思っている。ここでいう庭とは、植物の育つ庭という意味であるが、マンションであればプランターでも良い。身近に緑があることで人の暮らしというのはより豊かになると思う。

 二年ほど前に自ら設計をして自邸を建てたが、やはり小さいながら庭をつくった。私は住宅を設計する際、家よりも庭を先に考えることが多い。まず庭を考え、残ったスペースに家を建てるという発想だ。それは、自然の前に建築が立ってはいけないという考えからである。そういう庭への思いが近所の人に伝わっているのだろうか、特にそういった会話をした記憶はないが、我が家には色々な植物がやってくる。ご近所の方が、株分けした草花を、球根を、こぼれ種で育った樹木をくれるのである。ホトトギス、スイセン、クリスマスローズ、ユズ、フジバカマ等々。本当にありがたい。道路沿いには塀を建てず生垣とし、その合間にこれらの植物を植えているが、道行く人にも好評だ。そして何より嬉しいのは、植物を通じて親子ほど年の離れたご近所の方ともコミュニケーションが図れるということである。加えて、ご近所の方から戴いた植物ということで、地域として調和のとれた環境が形成されるということもある。まさに親子関係にある植物なのだから。